2018年4月1日日曜日

蟹完登

『モンスター』という小説がある。

醜悪な顔を罵られながら少女時代過ごした片田舎の一人の女が、美容整形を通して完全無欠な美貌を手に入れて帰郷し、幾十年も隠していた思いを初恋の男に打ち明けて果てるという内容である。


女がモンスターである理由は、顔面の異常性だけではない。今まで自分を罵倒してきた奴等に復讐を始めるための圧倒的美貌を手に入れるという執念にもあった。



新社会人になった私は、モンスターだった。

大して強くもないKNによる専横を許したあそこにいた自分よりも、比べものにならないくらい強くなる必要があった。そして自分の選択は間違えていなかったことを証明したかった。


あの頃は会室に「行けば」、原付を少し「飛ばせば」壁やジムがあるという好環境だったが、思い返せばそれらは仮定法で終わっていた。

故に私はジムに行くことを習慣にした。不思議なことにある行為が習慣になると人は無批判になるもので、登る日は自分の仕事が残っていても翌日に回して定時で帰った。周りの先輩が残業していることは気にならなかった。

ボルダリングにかける費用を捻出するため、昼食は弁当にした。さらに外食だと難しい糖質制限は、自分が作る弁当ならできる。正午を回ると同時に机にランチョンマットを広げる私を見た課長の目からは色が消えていた。


私は小説のモンスターと自分を照らし合わせていた。 彼女のように何物にも代えがたい達成感を味わって終わることができると信じていた。

登る、とにかく登ってあの頃の自分を超える、俺にはボルダリングしかない!この執念を肥やしにモンスターは成長した。生後4か月でジムのグレードを更新した。そして迎えた外岩では、2年かけてもできなかった《忍者クライマー返し直上》を1年半ぶりに触り、その日に落とした。


かくして自分の選択は正しかったことが証明されたが、そこでは終わらなかった。あそこに身を置いていた以上、登らなければならない課題があった。それは私を初めて外岩へ連れて行って下さった大先輩と、彼の背中を追い続けた先輩が在学中に登った、《蟹》である(当時のグレードは三段だったがこの際どうでもよい)。


さすがに《蟹》は難しかった。4日かかったが新社会人最後の日の3月31日、遂に完登した。





マントルが非常に見苦しいが、マントルを返すときはもう無我夢中で、、、という訳ではない。さっさと終わらせたかった。東西線の社畜の如くぎゅうぎゅうに敷き詰められたマットがあるから落ちても大したことないし、もう兎に角終わらせたかった。登り終わった直後の気持ちは、あー終わった終わった、やっと終わったと。清々した気持ち。縁切れたという感じだった。


その瞬間私は気づかされた。この数か月、別に好きでボルダリングをしていたのではなかった。それは自分の選択が正しいことを証明するための手段に過ぎなかった。達成感など微塵も無かった。


私はモンスターにすらなれなかった。